ベンチャーキャピタルから資金を調達して事業を拡大してきたスタートアップ創業者にとっても、自己資本で会社を育ててきた中堅・中小企業のオーナーにとっても、「いずれ上場する」という選択肢は、長らく出口戦略の本命と位置づけられてきました。経済産業省が2026年5月に公表した「スタートアップM&Aガイダンス」で引用された経営者調査では、将来の成長手段として「IPO予定」と答えたスタートアップ経営者が80.2%を占めた一方、「M&A予定」は5.3%にとどまります。VC投資先のExitの大半をM&Aが占める米国とは対照的な、日本の際立ったIPO偏重です。しかし2025年以降の東京証券取引所の一連の制度変更は、この前提を静かに、しかし大きく変えつつあります。本稿では、”IPOかM&Aか”という創業者・オーナーにとっての古典的な問いを、制度変更後の環境を踏まえて改めて整理します。

東証グロース市場で何が変わるのか
まず事実関係です。
- 東証は、グロース市場の上場維持基準を2030年3月1日以降に見直すことを決定しています
- 現行基準は「上場10年経過後に時価総額40億円以上」ですが、新基準では「上場5年経過後に時価総額100億円以上」となります
- 達成期限が半分に短縮され、求められる時価総額は2.5倍に引き上げられる、大幅な厳格化です
- 背景には、小規模のまま上場し、その後企業価値が伸びない企業が数多く存在してきたという市場構造への問題意識があります。東証の公表資料によれば、新規上場時から時価総額が10倍以上に成長した企業は全体の5%程度にとどまります
グロース市場は、VC調達を経たスタートアップにとって事実上ほぼ唯一の国内上場先です。したがってこの見直しは、スタートアップのExit設計に最も直接的に影響します。
なお、この見直しはグロース市場の「上場維持」基準であり、新規上場の審査基準そのものを直接変えるものではありません。しかし、主幹事証券や機関投資家は新基準を前提に案件を選別するため、実務上は新規上場のハードルも連動して上がっていくと考えるのが自然です。
IPOとM&Aの構造比較
制度変更の影響を論じる前に、IPOとM&Aを創業者・オーナーの視点で比較します。VC等の外部株主が入っているスタートアップに固有の論点は、各項目内で補足します。
1. 経済対価の時間軸と確実性
IPOでは、上場時に売却できるのは持分の一部にとどまります。売出比率の制約、ロックアップ、そして大株主の売却が株価を押し下げる懸念(オーバーハング)があるためです。創業者が持分の換金を実質的に完了するまでには、上場後さらに5〜7年、場合によっては10年程度を要するのが実態です。その間、株価変動と市場環境のリスクを負い続けることになります。上場とは換金の完了ではなく、換金プロセスの開始である——これがIPOの経済的な実像です。
M&Aでは、クロージング時点で対価の大部分が一括で現金化されます。アーンアウト(業績連動の後払い)等の例外はありますが、契約設計次第で限定することが可能です。確実性と即時性の面では、M&Aが明確に優位です。
スタートアップの場合、ここに株主構成の論点が加わります。優先株式で調達している場合、M&A時の対価分配は優先分配条項(いわゆるみなし清算条項)に従うため、売却総額と創業者の手取りは一致しません。売却額がどの水準を超えると創業者の取り分が意味を持つのかは資本政策次第であり、Exit検討の前に必ず確認すべき事項です。また、VCにはファンドの償還期限があり、その時間軸が創業者自身の希望と一致するとは限りません。IPOの換金長期化リスクは、外部株主との利害調整の問題としても現れます。
2. バリュエーション水準
IPOの公開価格には一定のディスカウントがかかり、その水準は上場時点の市場環境に強く左右されます。加えて、時価総額100億円未満のレンジでは上場後の流動性が薄く、アナリストのカバレッジも限られるため、まとまった売却が株価を崩しやすいという構造があります。
M&Aでは、支配権の移転に伴うプレミアムや、買い手が見込むシナジーを対価に織り込む余地があります。複数の買い手候補による競争環境を作ることができれば、さらなる上振れも狙えます。
期待値の上限は、上場後も高成長が続いた場合のIPOにあります。一方、確実に手にできる水準はM&Aの方が高いことが多い——特に時価総額100億円に満たない規模帯では、この傾向が顕著です。
3. 経営への関与と支配権
IPOは経営継続が前提です。支配権は維持できますが、四半期開示、ガバナンス体制の整備、株主対応といった公開会社としての規律に服します。
M&Aでは通常、支配権を手放します。売却後の関与の有無や期間は買い手との交渉事項であり、キーパーソンとして2〜3年の継続関与を求められるのが一般的です。
4. 従業員・組織
IPOは会社の独立性を保ち、採用面での信用力向上やストックオプション等による従業員還元が可能です。
M&Aでは、買い手の資本力・販路・技術を取り込める一方、統合過程での組織的な摩擦リスクがあります。従業員の処遇は、買い手の選定と契約条件の設計によって担保していくことになります。スタートアップでは、従業員に付与済みのストックオプションの扱い(買収時の買い取り、買い手株式のインセンティブへの切り替え等)が交渉論点となります。IPOを前提に設計されたSOであっても、M&Aで従業員に報いる設計は可能です。
5. 準備の負担と実現可能性
IPOは、監査対応、内部管理体制の構築、主幹事証券・取引所の審査を経て、準備開始から最短でも3年程度を要します。しかも市場環境次第で「窓が閉じる」ことがあり、タイミングを自らコントロールできません。
M&Aは、準備からクロージングまでおおむね6〜12ヶ月です。ただし、適切な買い手が現れるかどうかは案件の性質に左右されます。
6. 実行後の責任
IPOでは、上場後も業績・株価への責任、開示責任が続きます。
M&Aでは、売主として表明保証にもとづく補償責任を負いますが、金額の上限と期間が契約で区切られ、経過後は原則として解放されます。
制度変更は、この比較をどう動かすか
以上の比較を前提に、東証の制度変更が意味するところを考えます。
第一に、「小さく上場し、時間をかけて成長する」という戦略が成立しにくくなります。 時価総額数十億円で上場し、オーナーが長い時間をかけて持分を売却していく——従来の日本の小型IPOで広く見られたこの型は、上場5年で時価総額100億円という基準の下では、出口として設計しづらくなります。IPOを現実的な選択肢とするための時価総額の実質的な下限が、大きく引き上げられたと読むべきです。
第二に、換金の時間軸リスクが一段と重くなります。 もともとIPOには換金完了まで長期を要するという性質がありましたが、新基準の下では、その換金期間の途中で「基準未達→上場廃止懸念→株価下落→売却困難」という悪循環に陥るリスクが加わります。5年という期限が市場参加者全員に見えているため、基準の境界線上にある銘柄は買い手がつきにくくなり、オーナーの売却はさらに難しくなる構図です。
第三に、政策の側も、IPO偏重からの転換を明確に後押ししています。 経済産業省は2026年5月の「スタートアップM&Aガイダンス」で、東証グロース市場の基準見直しの動きにも触れつつ、M&Aをスタートアップの有力な成長手段として位置づけました。これに先立つ2025年9月には、VC投資契約に関する経産省の指針(増補版)が、Exit協力義務を上場に限定せずM&A等の選択肢を含める方向を示しています。「IPOを目指すことがVCとの約束」という従来の契約慣行そのものが、見直しの対象になっているということです。
第四に、IPO準備の現場では、すでに選択肢の再検討が始まっています。 新基準を見据えて成長戦略の見直しを迫られたIPO準備企業では、M&Aによる規模拡大を組み込んだ計画修正、東京プロマーケット等の他市場への上場、そしてM&Aによる売却が、それぞれ現実の選択肢として検討されています。
第五に、両にらみの戦略(デュアルトラック)の力学も変わります。 IPO準備とM&Aの検討を並行して進めるデュアルトラックにおいて、IPOの実現確度は買い手との交渉における重要な材料です。時価総額100億円のラインに確度を持てない場合、IPOという代替肢の交渉上の重みは、従来より小さくなっていきます。
それでも、答えは一つではない
ここまでの整理は、小型IPOという選択肢の環境が厳しくなったという事実を示すものであって、すべてのオーナーにとってM&Aが正解だということを意味しません。意思決定は結局、次の問いに帰着します。
- 経営を続けたいか、退きたいか、あるいは次の挑戦に移りたいか。 続ける意思が明確ならIPOを目指す意味は残ります。一方、売却によって時間と資本を得て次の事業を興すことは、Exitの大半をM&Aが占める米国では標準的な型です
- 確実性を取るか、上振れの可能性を取るか。 今後5〜10年の成長を信じ、そのリスクを自ら負い続ける覚悟があるかどうか
- 時間軸はどうか。 換金完了までM&Aは1年前後、IPOは準備を含めれば実質7〜10年超になり得ます。ご自身の年齢や承継の事情が、この軸を強く規定します
- 会社の独立性そのものに価値を置くか
- 事業の性質は公開市場向きか。 ニッチで安定収益型の事業は、公開市場よりも戦略的買い手の方が高く評価することが少なくありません
そして、 IPOかM&Aか は完全な二者択一ではありません。両者を並行して検討するデュアルトラックのほか、M&Aとその後のExitを組み合わせた「二段階Exit」という設計もあります。典型的にはPEファンドが関与するケースで、オーナーが持分の過半をファンドに売却して対価の大部分をまず現金化しつつ、持分の一部を残存(または再出資)させ、ファンドの経営関与の下で企業価値を高めたのち、5〜7年後の再売却やIPOの際に残存持分を二度目に換金する形です。一度目の売却でM&Aの確実性を確保し、二度目でその後の成長の上振れを取り込む——本稿で比較してきた両者の長所を、時間差で組み合わせる設計といえます。重要なのは、制度環境が変わった今、従来の前提のまま出口戦略を固定しないことです。
おわりに
当社は、売主様・オーナー様の利益を最大化するファイナンシャルアドバイザーとして、M&Aによる会社売却のご支援を本業としています。あわせて、IPO・IRについても実務知見を有しており、社内に入り込んだ経営執行のご支援を含め、御社の状況に応じた柔軟な形での関与に対応しています。本稿で整理したとおり、IPOかM&Aかという問いに一律の正解はなく、答えは創業者・オーナーお一人おひとりの事情、株主構成、そして事業の性質によって変わります。
M&Aのご相談はもちろん、IPO準備と並行したデュアルトラックの設計可能性、あるいは既に他のアドバイザーと進めておられる検討へのセカンドオピニオンも含め、結論を急がないオープンなディスカッションを歓迎します。