
はじめに:ベトナム「移転」ではなく、アジア全体を前提にした再設計へ
米中関係の不確実性と通商政策の揺らぎを受け、サプライチェーンの地理的分散(China+1, +N)は日本の製造業において既定路線となりました。なかでもベトナムは、EVFTA・CPTPPの発効と運用を背景に輸出拠点としての存在感を急速に高めています。米国の輸入構造においても中国代替の受け皿として比重を増し、2025年の米越通商交渉では関税問題で早期に一定の合意を形成(いわゆる“トランプ・ディール”)するなど、グローバル経済における戦略的重要性を示しました。
ただし、電力・労働・制度面のボトルネックや、賃金の趨勢的上昇という“現実解”にも直面しています。「ベトナムへの移転」それ自体を目的化すれば、早晩コスト優位(レント)の剥落が生じます。ここでいう「レント(rent)」とは、経済学における「超過利潤」や「一時的なコスト優位性」を意味します。特定の地域や制度環境に依存して得られる利益は、賃金上昇や制度変更により時間とともに失われる可能性があります。したがって、単純な移転戦略ではなく、複数拠点を組み合わせたサプライチェーンの再設計や高付加価値化によって、持続的な競争力を確保することが重要です。
問われているのは、上流から下流までの工程を地域間で再配置し、ベトナムを含む複数拠点(multi-hub)で最適化する設計です。本稿では、パナソニック、シャープ、住友電装、福原精機製作所の先行事例を手がかりに、ベトナム進出の実務論点と、ベトナム単体に依存しないアジア/グローバル・サプライチェーンの最適化と高付加価値化のロードマップを検討します。
ベトナムの優位性と限界:冷静なファクトに基づく判断
米国輸入に占める中国のシェアが2017年の約21.6%から2023年には約13.9%へと低下する一方、ベトナムの比率は着実に上昇し、特に電機分野で「中国代替」の存在感が強まりました。EVFTAやCPTPPの効果も明確で、欧州・環太平洋向けの関税優位が中間財・部材輸出の拡大に寄与しています。
他方、電力供給の逼迫、とりわけ北部での需給不安定、行政手続きの高負荷、労働供給の伸び鈍化など、供給側の制約は構造的です。賃金は緩やかながら一貫した上昇トレンドで、日系企業の昇給率は近年5%台で推移しています。したがって、「人件費の安さ」を収益モデルの柱に据える設計は持続性に限界があり、製品・工程・サービスの三位一体で提供価値の単価を押し上げる高付加価値化が必要です。評価軸はコスト単価ではなく、為替・関税・納期・品質逸脱コストまで含めた総保有コスト(TCO)へ拡張するのが筋でしょう。
事例分析と視点:R&D近接、自動化、サービス一体化
パナソニック:空質機器/電材の地域ハブ化とR&D近接による“価値の内製化”
パナソニックはビンズオン省に室内空気質(IAQ)関連の新工場を建設し、2021年から天井扇・換気扇の量産を開始しました。投資は約4,500万USD(約50億円)。2025年度には年間300万台の体制を掲げ、R&D機能の併設も進めています。さらに配線器具・ブレーカなど電材の増産に向け、2024年に既存工場で新棟を本格稼働させました。生産・開発・市場を近接させる設計は、開発から量産への移行摩擦を抑制し、SKUの最適化と在庫回転率の向上に直結します。賃金上昇局面で付加価値を維持するには、設計変更サイクルの短縮が決定的です。FTAに基づく広域出荷と組み合わせることで、同一モジュールの地域横展開が可能になり、在庫とキャッシュの滞留を抑え、TCOの優位を確保できます。
シャープ:中国→ベトナムへの工程再配分とライン自動化の段階設計
シャープは2020年にSharp Manufacturing Vietnamを設立し、車載用液晶モジュール(LCD)などの生産を中国から移管。月12万台のラインを3本稼働し、最大5ラインまで拡張余地を残した投資設計を採っています。白物家電/電子部品/車載液晶を束ねた複合工場としてEPE認定で輸出志向を明確化し、装置工程のフル自動化比率を高め、人手は検査など付加価値の高い工程に集中させています。重要なのは「どの工程をベトナムに置くか」を賃金単価だけで決めないこと。為替、関税、納期、品質逸脱コストまで含めたTCO評価に基づいて工程別の立地を選び、拡張余地という“オプション価値”を温存しながら、需給・通商の変動に対する弾性(オプショナリティ)を担保しています。
住友電装(SWS)/住友電工:自動車電装の現地化深化で供給網の厚みを確保
住友電装はSumidenso Vietnamを通じ、ワイヤーハーネスの製造・加工・販売を展開。住友電工グループはハノイで家電・車両向けハーネスの生産機能を有し、コネクタの現地生産強化も進展しています。部品レイヤーの現地化が段階的に深まるほど、リードタイム短縮と供給の近接性が高まり、最終製品の在庫回転や品質安定に寄与します。中国・ベトナムのデュアルソースを基本形に、品目によってはタイやマレーシア、インドの拠点を加える三重化で、通商変動へのバッファを持たせる設計が合理的です。
福原精機製作所:精密機械×アフターサービスの一体提供で価格弾力性を確保
神戸発の丸編機トップメーカーである福原精機製作所は、ロンアン省のレンタル工場にPrecision Fukuhara Vietnamを立ち上げ、2022年11月から本格操業。日本品質のモノづくりに、現地からのスピード供給を重ねることで、アフターサービスと技術教育を含む“提供価値の現地化”を進めています。機械系B2Bでは「製品+サービス」の束ね売りがマージンの源泉です。保守・予防保全・リモート診断をサブスク化し、製品価格とは独立した収益レイヤーを作ることで、現地賃金の年率上昇分を粗利で吸収しやすい構造を組めます。現地サービス網の即応性と、日本側の装置制御ノウハウの両利き運用が、価格転嫁耐性を強めるポイントです。
高付加価値化:製品・工程・サービスの三位一体でKPI設計
賃金上昇局面では、単なるコスト削減ではなく「製品」「工程」「サービス」を組み合わせた高付加価値化が重要です。製品面では、コモディティ品の整理とカスタム・高スペック比率の拡大を検討し、用途別に強みを発揮できる規格に集中することが有効です。工程面では、自動化や効率化を段階的に進め、品質と生産性を両立させる設計が求められます。サービス面では、保守や予防保全を製品販売と切り離し、サブスクリプション型の提供など、収益モデルの多様化を視野に入れることが考えられます。
アジア/グローバル最適化:“China+Vietnam+N”の再配置
サプライチェーンの再設計では、ベトナム単体に依存せず、複数拠点を組み合わせた柔軟な構造が鍵となります。米州向けにはメキシコでの最終組立をオプション化し、ベトナムからの中間財輸送を政策変動に対応できるルートとして設計することが一案です。欧州向けでは、中東欧の組立拠点とベトナムの部材生産を組み合わせ、物流や関税、環境負荷まで含めた総合評価を行うことが望まれます。ASEAN向けには、タイやマレーシアを補完拠点として活用し、電力リスクやBCPを多拠点で担保する構造を検討します。中国については、内需向けは現地完結、輸出向けは関税影響の大きい品目をASEANへ移管するなど、“+N”の分散を維持することが重要です。
将来構想:ベトナム・プラス・グローバル
モジュール化を前提に、部品・筐体はベトナム/タイ、電子実装はベトナム/マレーシア、最終組立は米州でメキシコ、欧州で中東欧という地域分担を一つのモデルとして提示します。モジュール仕様を共通化し、最終組立のみ地域差に合わせて税制・物流を調整することで、可搬性の高い設計を実現できます。調達は中国・ベトナムのデュアルソースを基本とし、重要品目はインドやASEAN都市を加えた三重化を検討することが望ましいでしょう。人材面では、現地と本社の連携を強化し、言語と工程の複合スキルを育成する仕組みを整えることが、品質と生産性の基盤となります。
まとめ:単なる「移す」から、“勝てる設計を選ぶ”へ
新興国の賃金上昇は避けられない前提であり、また国内政治・地政学的な不安定性やインフラ脆弱性も含めたカントリーリスクを考慮する必要があります。製品・工程・サービスを三位一体で高付加価値化し、ベトナム単体で完結させず、アジア/グローバルの多拠点最適化によって通商・電力・地政の揺らぎに耐える構造を組み込むことが、今後の競争力確保につながります。自社リソースや時間的制約の厳しさ(タイムクリティカル性)に応じて、現地メーカーとのM&Aや提携も現実的な選択肢となり得ます。
参考資料(抜粋)
- 米中対立下の生産移転・リスク、ベトナムの位置付け:日本総研(JRI)レポート、2024/12/26。
- ベトナムの輸出拠点化・電力制約:MURCレポート、2023/07/18。
- 日系企業の業績・賃金動向・行政手続リスク:JETRO「2024年度日系企業実態調査」分析、2025/03/07。
- サプライチェーン再編・部品サプライヤーの競争環境:JETRO特集(2025/03/02)。
- パナソニックのベトナム展開(IAQ新工場・電材新棟):LNEWS 2021/09/28、パナソニック公式 2024/01/23
- シャープのベトナム工場(中国からの移管・ライン構成):現地インタビュー記事。
- 住友電装/住友電工のベトナム拠点:各社公式。