
バンコクのチャオプラヤー川沿いに広がる「アジアティーク・ザ・リバーフロント」は、2012年にオープンした大型リバーサイドモールだ。1500以上のショップやレストラン、観覧車を備え、夜景と食事を楽しむ観光客で賑わう人気スポットであり、多くの日本人観光客を惹きつける。しかし、この華やかな空間の足元には、歴史の層が幾重にも重なっていることは、余り知られていないかもしれない。
アジアティーク一帯はもともと、1884年にH.N.アンダーセンが創業したイースト・アジアティック・カンパニー(EAC)が展開した倉庫・桟橋群が前身で、タイ産チーク材などの欧米への輸出拠点として機能した場所である。チャオプラヤーに面し、周辺はタイ最初の近代道路とされるチャルンクルン通り(Charoen Krung Road)へと開ける。現在知られている公共向けの歴史紹介では、この道路がタイの「最初の道路」と説明されることが多く、輸送・商業の節点であった地域的文脈が色濃い。なお、EACは20世紀初頭から日本でも活動しており、現在はイースト・アジアチック・カンパニージャパン株式会社(EACジャパン)として営業している。
日本の歴史とも深いかかわりがある。第二次世界大戦期、この一帯の倉庫は日本軍の進駐後に軍需目的で転用され、都市部の要衝であるバンコクは連合軍の空襲目標にもなった。市内各所に設けられた防空壕は、空襲警報のたびに市民が駆け込む場としての役割を担った。今日のバンコクでは、駅前や学校前などに設けられた多くの壕が再開発などで痕跡を失ったが、アジアティークの敷地内には小さな防空壕がひっそりと残っている(写真は本記事末尾)。円筒形のコンクリート構造で、舗装の切れ目に埋もれるように存在するため、意識しなければ見過ごしてしまう。戦争の記憶をとどめる希少な遺構だ。
経済的に見れば、現在のアジアティークは、再開発によって「歴史を資産に変える」ことに成功した再開発の好例といえるだろう。倉庫群の意匠を残しながら、観光・商業・エンターテインメントを融合させ、チャオプラヤー河畔の価値を最大化した。ランドマークの観覧車「Asiatique Sky」は、今やSNSを賑わせるデートスポットとして定着している。その足元に戦争の痕跡が眠っているという事実は、私たち日本人が知るべき、日本軍の進駐や都市の軍事利用、そして空襲といった歴史的事実を確かに伝えるものだ。機会があれば、ショッピングや食事のついでにでも、ぜひ足を運んでみてほしい。
