M&A (合併・買収)の実務において、企業価値、事業価値、株式価値という用語は頻繁に登場します。これらの用語が示す意味は明確に異なりますが、しばしば混同、誤用も見られるところです。
各価値の定義を正しく理解していない場合、取引検討における評価や判断、交渉の相手方、関係者(専門家等)とのコミュニケーションが円滑に進まず、あるいは齟齬ある認識を前提に交渉が進行してしまう、といった形で問題となることがあります。
本稿では、企業価値、事業価値、株式価値の違い、それぞれがM&Aプロセスの中でどのように位置づけられ、またどのように評価されるべきかをM&A実務における実務的な注意点と併せて解説します。
1.それぞれの「価値」の定義
「企業価値(Firm Value)」とは、ある企業全体の経済的価値を表す指標であり、事業価値(Enterprise Value: EV)と非事業資産の価値を合わせたものです。
事業価値(EV)とは企業の事業(=ビジネス)の価値を指し、非事業資産とは事業活動に使用されていない資産の価値を指し、金融資産(純投資目的の有価証券等)や遊休資産(不動産など)、現預金(ただし、事業運営上必要な現預金は対象外)などが含まれます。この点、M&A実務における売り手・買い手間の議論のベースとなるのは事業価値(EV)であることが殆どです。事業価値は、企業のビジネスとしての価値に注目した評価であり、戦略的投資家(買い手)にとって最も重要な指標であるからです。
ここで株式価値は、企業価値から有利子負債を控除した残りの価値と定義することができます。ただし後述2の通り、実務的には株式価値は事業価値(EV)から出発し、一定の加減調整を経て株式価値を導くことが一般的な処理となります。
なお、よくある質問の一つに資産価値(Total Asset Value)と企業価値(EV)がどう違うのか、両者の違いは企業価値の計算式を展開すると容易にお分かりいただけると思います。
企業価値=株式価値+有利子負債
∴ 企業価値=総資産-総負債+有利子負債
∴ 企業価値≒現預金(非事業資産を含む)+固定資産+運転資本
2.M&A実務上の交渉・合意のプロセス
デューディリジェンス(DD)前の意向表明(LOI)段階では、事業価値(EV)ベースで提示・合意されることが一般的となっています。他方、DD前の段階において非事業資産の価値まで合意することは例外的です。
ここで株式価値は、事業価値(EV)から純有利子負債(Net Debt)を控除した額として算出され、最終契約書における合意価格の基礎となります。ここで純有利子負債とは、企業が抱える有利子負債から現金及び現金同等物を差し引いた額を指します。総負債ではなく、あくまで有利子負債(利払いを伴う負債=銀行・リース会社からの借入等)である点に留意してください。
純有利子負債とは有利子負債からキャッシュ(現金及び同等物)を控除した残部を指します。非事業資産はこの純有利子負債の計算においてキャッシュライクアイテムとして「キャッシュ」に含めることで考慮される、というのが一般的な処理となります。
3.M&A実務上のポイント(主な注意点)
M&Aにおける価値評価は、企業価値、事業価値、株式価値の違いを正確に理解し、それぞれの評価方法を適切に活用することが肝要です。M&A実務における価値評価において、各論・細部の論点は多岐にわたりますが、まずはこれらの基本的な事項の理解を押さえておくことが重要です。
実務上のポイント、かつしばしば誤りが生じやすい主な点は以下の通りです。
1)非事業資産の税効果を考慮する 非事業資産の売却に伴う含み益や含み損が実現される際、その税金コストを考慮することは非常に重要です。売却によって得られる利益に対する課税が発生する場合、その税金を差し引いた額が実際に得られる価値となります。この税効果を無視すると、実際の価値評価に誤りが生じます。
2)価値に関わる用語の定義を明確にする M&A交渉において「企業価値」「事業価値」「株式価値」などの価値に関する用語が頻繁に登場しますが、これらの用語が示す意味は各関係者や文脈によって異なる場合があります。そのため、交渉の初期段階でこれらの価値が何を指しているのかを明確にし、合意形成を行うことが不可欠です。特に、相手方が用語を正しく理解していない可能性もあるため、定義の確認を怠らないことが重要です。
3)評価アプローチの一貫性を維持する 企業価値、事業価値、株式価値を正確に評価するためには、一貫した評価基準と手法を採用する必要があります。複数の価値評価を行う際に、評価方法の違いによって結果に大きな差異が生じることを避けるため、論理的な整合性を維持することが不可欠です。例えば、売り手が所有する不動産の含み益を評価額に加えることを主張する場合、その不動産が事業価値の算定に織り込まれている(事業と分離不可分である)場合、当該主張の妥当性は否定されるべきといえます。
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